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2011年12月26日

Itamiya in Beijing 2011 1/2(北京工人体育館)

2011年 9月23日 
『北京の武道館』と言われる、北京工人体育館(最大キャパ1万2千人)にて
アジアのトップスターの那英(ナーイン)さんの
ニューアルバム発売記念のコンサートが開かれる事になった。

伊丹谷が中国に移住して中国でのいろいろな活動を終え、
大阪→北京→香港→東京と、再び日本に拠点を移してから4年が経つ。
その間も北京人民大会堂や深圳のCCTVの音楽番組への出演等、
中国と日本を往復し、北京の大舞台に立たせて頂くチャンスがまた訪れた。
今回のライブでは那英さんと『ウェイ・ラ・アイ』をデュェットで歌い、
バンドメンバーに混じってコーラスも演奏も奏でた。
この日のライブはコンサートの翌日に大陸中のメディアに大きく取り上げ、
伊丹谷もデカデカと大陸中のメディアに露出された。
結論から言うとその日のコンサートの『結果』の一つは大成功で終える事ができた。
いろんな意味でまた思い入れの深い北京でのコンサートとなった。

Sina コンサートの翌日のニュースより
http://video.sina.com.cn/p/eladies/nx/v/2011/0926/114261498713.html

結果的には誰が見ても大成功のイベントであったが、
そこには毎度の事だが、いろいろとあった。
相変わらず、日中合作の制作にはいろいろとある。

今回の北京滞在中の伊丹谷ライブは
北京工人体育館の那英さんのライブと
これからの北京のロックミュージシャンを育てる学校、
MIDI音楽院での伊丹谷ソロライブの2本立。
まずは、その北京の工人体育館のライブレポートから…

今回の那英さんの北京工人体育館でのコンサートは
今まで13億人の人口を持つ中国大陸で、
ずっとスター街道を走り続けて来たトップスターの
那英さんには多くの新たな試みがあった。
今回の新たな試みとしては、
サウンドプロデュースに日本人の菊地圭介さん。
那英バンドはいつもの中国人バンドでなく、
日本からバンドを招、その上、この日の音響チーム・照明チームを
全て日本から招くという今までの中国の音楽史上にあまり例の無いスタイルで、
日中合作のビックステージを作り上げるというプロジェクトであった。

これを日本で例えるなら、日本人のソロ・トップシンガーが、
アメリカからスタッフやミュージシャンを招いて、
スタッフもアメリカから招き、
武道館でライブをやるという感じ?に近いかもしれない。
ただ、大きく違うのは『日米』でく『日中』。
『武道館』と『北京工人体育館』とはやっぱり違う。

これには、とても複雑なトラブルが前提である。
ただでさえ、大型のコンサートは体力的にも予算的にもリスクを背負う。
何百人規模の箱のライブと何万人規模の大箱ライブは全く違う。
しかも、『日中合作』と来たもんだ。
準備の問題や制作上での言葉の問題や習慣の違い、予算上の問題等、
日本も中国も国内のスタッフとミュージシャン同士で制作して行くやり方が、
絶対的に楽である。
といった意味では、
今回、那英さんはあえて『楽でない選択』をしたという事である。
おそらく、企画段階でいろんなリスクの覚悟があったはずだ。
伊丹谷は今回のお話を頂いて、すぐに思った事は、
『その覚悟の上で挑んだ那英さんと中国側のスタッフに尊敬の気持ちと、
自分に出来る事があるなら、どんな事でも全力で協力したい』
という気持ちでいっぱいであった。

中国ではなんだかんだ言ってまだまだ半日感情があるので、
日本人チームを使ってバッシングされたり、
制作期間内に日中問題が勃発したりしたら、
寸前で『コンサート中止』という事も覚悟しなければいけないし、
中国での那英さんの歌手人生に大きな傷がつく。

2007年に挑んだ『北京人民大会堂』のコンサート
http://www.itamiya.net/jp/archives/2007/02/_2007121.html#more
も同じ覚悟が必要であった。

那英さんは今までもチャゲ&飛鳥の飛鳥さんと競演をしたり、
日本の音楽番組にも何度も顔を出し、
北京では珍しい親日的なトップスターでもある。
だからこそ、日中間の複雑な関係や日中合作の複雑さも
全て理解と覚悟をした上で今回のライブを企画したのであろう。

ということで、
那英さんはもちろん、中国人チームと、
2007年の北京人民大会堂コンサートを成功させた時と同じ日本人バンドチームで、
いろんなリスクを前提に、
今回の那英さんのコンサートを成功に向かって、
とにかく全員、全力で力を合わせ成功に向かって突っ走った。

来年は日中国交正常化40周年。
2012年は素晴らしい日中関係が築かれる年になるだろう。
その為に日中の音楽業界や芸能界は来年の準備に向けて必死なようである。
しかし、我々からしたらいつもと同じ事。
特に菊地圭介さんとはこの約10年間近く、
毎年日々『日中友好』を考え、音楽と真剣に向き合って来た。
最近は中国に対して日本の印象も変わって来たようだが、
我々は日中の関係が最悪な時でも日中合作のステージを乗り越えて来たので、
特に日中友好何周年という事は気にせず、全力で挑んだ。

前置きが長くなったが、
今回の北京工人体育館でのライブは
日本人メンバーが約2週間前に北京に前入りする所から始まる。
北京のリハーサル会場は北京工人体育館の中にある
大型のプロスタジオで行われた。
リハーサルの現場はスタジオスタッフも撮影スタッフも初日から多く、
プロミュージシャン専用のリハーサルスタジオなので、
ケアーと設備は充分であった。かなり景気の良いバブリーな環境であった。
日本でもあそこまでしっかり予算にお金をかけてリハーサルをやるのは、
ドームやアリーナクラスのライブくらいであろう。
毎日、リハーサルスタジオを出入りする時に、
参加ミュージシャン達は北京工人体育館の会場を眺めながら、
『こんなでかい箱でやるのかぁ…』
と、つぶやき、日々リハーサルに励んでいた。
人民大会堂と同じく、天井の星はなんとも不思議な威圧感があった。
伊丹谷的には特別な思いがあった。
初めて伊丹谷が北京に来た13年前、
まさか自分が北京工人体育館の舞台に立てるとは夢にも思っていなかった。
『自分が13年間、歩んできた長い中国での活動は間違っていなかったかも…?』
と、そんな事を考えながら、長い北京リハーサルが続いた。

2、3日経つと、那英さんがリハーサルに参加した。
大スターと思えないくらい、
初対面は気さくで明るい性格だったのが、とても印象的である。
しかも、ポップシンガーと思えないくらい『超ファンキーな女性』である。
サバサバして女々しくなく、怒らしたらイカツそうな…笑
まさに『姉貴っ!』って感じ。
そんな那英が、リハーサルで本番と同じような衣装やステージングで
リハに挑む伊丹谷に那英さんは反応を示す。
『なんじゃこの中国語を喋る派手な不思議な日本人歌手は…?』
と思ったのか?初日から『那英の伊丹谷いじり』が始まった。
那英さんはいつの間にか伊丹谷の事を『おい!姉貴っ!』
と呼ぶようになる。
中国ではあまり少ないファッションの伊丹谷を
冗談交えてオカマ扱いした意味と、
お互いリスペクと交えた意味で
那英 『伊丹谷姉貴っ!』
伊丹谷『わしゃおかまちゃうわい!呼ぶなら兄貴と呼べっ!』
と冗談をかわし合い、
伊丹谷と那英のデュエット『ウェイラアイ』を交え、
リハーサルはドンドン楽しく進行する。
スタッフは毎晩、コンサートの為の調整ミーティングが開かれる。
とにかく、我々ミュージシャンはステージでの音楽をより良くする為に、
全力でリハーサルを行った。
そんなこんなで、あっという間に本番の日は近づいて来た。
リハーサルから本番中まで、ここで詳しい事は書けないが、案の定、いろいろあった。
伊丹谷が知らない所でも、大きなトラブルは沢山あったであろう。
ライブを終えてみて感じた事は、
ミュージシャンとして、日本人として、人として、
今回のステージに参加できた事に本当に感謝している。
自分のソロのステージではないが、
今回のイベントも参加できて気付けた事はとても多かった。
今後の『日中間での共作の大切さ』を改めて感じる事が出来た。

自分は中国の活動で、いつも思う事がある。
『結果』には『二つ』ある。
『一つ』は『表面的にすぐに出る結果』
『一つ』は『長い時間が経ってみて出る結果』
もちろん、後者の『結果』の成功は前者の『結果』の成功よりも何倍も難しい。
『長い時間』は1週間後、1ヶ月後、1年の長さではない。
短くても3年後、5年後、10年以上の時間が経ってみないと答えは出ない。
今回のコンサートは前者の『成功』だけでなく、後者の『成功』に繋がると伊丹谷は信じている。

ありがとう!那英!
ありがとう!今回賛同してくれた全ての方々!
ありがとう!今回のコンサートを応援してくれた方々!

今回の我々が参加させて頂いたコンサート以外にも
いろんな場所で、いろんな人によるこういったコンサートが
これからももっともっと多く開催される事を祈っています!

伊丹谷良介

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